高田直樹サイト移転の顛末
<旅行記>
マレーシア航空でイタリアへ(2011年春)
冬のリモネット暮らし(2010年冬)
イタリア・アルバのトリフ祭へ(2009年秋)
中国からフンザへ(2008夏)
プラハからリモネットへ(2008年春)
非常事態宣言のパキスタン(2007年秋)
ヨーロッパの旅とスキー(2007年冬)
久しぶりのパキスタン(2006年秋)
アメリカ旅行記(2005年秋)
パリからイタリアそしてフランス往復(2004年春)
リモーネスキー場便り(2004年冬)
イタリア旅行記(2003年夏)
アフガン難民支援リポート(2002年秋)
旅はBirdyを連れて(2002年春)
<映画>
16mm映画
「岩登り技術」基礎編・応用編(YouTube)(1973年)
16mm映画
「ハラハリ」(YouTube)(1969年スワット・ヒマラヤ探検・踏査の記録)
<高田直樹作品集>
<
ごあいさつ>
京都府大山岳会50周年記念誌(2007年)(ラトック1峰、コングール峰などの記事)
『ヤマケイ関西』・エッセイ
「北山のぼくの好場」(2002年)
[週刊]日本百名山・Essay
「源流のガヤガヤ」が聞こえてくる(2001年)
体験的自然教育論
もっと外で遊ばなあかん!(自然体験.com)(2001年)
「なんで山登らへんの」(『山渓』連載1995年~1997年)
高田直樹の異国四景(1993年〜1994年)
「パソコンおりおり草」(1991年)
『いやいやまあまあ』(京都新聞夕刊連載1980年)
「マギーの山」(小学館『四年の学習』1975年12月号)
コーカサスの山と人(1971年)
「ラホールの蒼い月」(1970年)
「ラップトップ型パソコン活用法」(『日経パソコン』1986年)
「ぼくの夢のパソコン」(『Oh!PC』1985年1月号)
「登山と神話」(『岩と雪』連載1974~75年)
「西パキスタンの旅」(1969年)
<身辺雑記>
Affecting encouraging Mail from Nazir(ナジールから励ましのMail)(2011/3/14)
Personal Opinion about Facebook(2011/2/14)
Facebookを始める(2011/2/14)
盛田昭夫氏に会った日(2011/1/31)
我が家の井戸(2010/10/22)
獣囲い(ししかこい)をつくる(2010/10/1)
物語感想「マギーの山」(2010/9/26)
たとえばイタリアでは(2010/8/17)
A news of Riccardo Cassin's death
リカルド・カシンの訃報(2009/8/17)
16年ぶりの劔澤小屋(2007年晩夏)
野田万次郎先生追悼文
木村監督との出合い〜監督岩の由来〜
近頃、日本の各地で、野生生物の被害が報じられている。
新しいところでは、京都奈良の社寺仏閣に住み着くアライグマであったり、鮎を喰らう川鵜であったり、市街地に蝟集するツグミであったり。
私の郷里のるり渓では、従来の猪、鹿だけではなくアライグマが加わった。
私が子供の頃、庭先に鹿がひょっこり顔を出したり、柿を喰らいに柿の木に登った狸が、犬に吠えられて立ちすくんでいるというような光景は珍しくなかった。
でも、村には数人の猟を生業とする人もいたし、鹿を追いつめる犬も沢山いた。
いまはそんな天敵はいなくなって、彼らは傍若無人に跳梁し作物を荒らす。
友人のタカヒコドクターが言うように、狼を放したらいいのではないかと、わたしも思う。
栗の落ちる季節になった。
母が生きていた時は、問題はなかった。毎日落ちる栗を収穫していたから、猪や鹿も餌付けされるという状況にはなかったのだろう。でも、状況は変わった。このごろはアライグマも加わり夜のうちに、ことごとく食べ尽くす。

対策を講じる必要に迫られて、柵を作ることにした。
立派な柵ができた。
でも私はほんの少し手伝っただけで、ほとんどは家内の作業である。
明け方までYouTubeのフォーラム神保町のパネルディスカッションを観ていて、昼頃起きだしたらもうほとんど完成していた訳。
材料は、母が菜園を囲うのに使っていたもので足りたようだ。

沢山あった父が植えた栗の樹は、父の死後どんどん枯れて、いまはもう数本のみになっている。
栗は一斉に落ちる訳ではなく、樹によってその時期が異なる。とりあえず、一番急を要する樹を選んだ。
一番大きい樹は、イガの実が青々しているから、後にまわしていいと思われた。

もうすぐに落ちると思われる樹は急斜面にあって、柵を作るのは困難である。
シートを張って、受け止める工夫をした。北山パーティー用に使っていた養生シートの古いのを拝借することにした。
雨水がたまるといけないから、水を入れてチェックして、水が抜けるように穴をあけた。
このやり方が成功するかどうかは、栗が落ちてからでないと分からない。
家内は鹿が飛び込むと心配したが、そんなことは絶対にない。こうしたものがあるだけで、動物どもは警戒する。最初のうちだけなんだろうけど。
でも、決して飛び込んだりはしないはずだ。

教会の鐘が止むことなく鳴りだし、今日が日曜日だと気付きました。<お祈りに集まりなさい>と呼んでいるのです。
9時半に鳴りだし、鳴りつづけます。秀子が勘定しようとしたのですが、130を越えても鳴りつづけ、これは108つの梵鐘どころではないと止めにしたそうです。
なんで百八つなん、という話になって、早速Wikipediaで調べてみました。
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サルシッチャ。猿がなに知っとるんじゃ、みたいな名前だけど、これはイタリアではごく一般の食べ物で、豚肉の生ソーセージ。イタリアに来だして10年になるけれど、今まで食べたことはなかった。
サルシッチャを知ったきっかけは、TVで「荒川静香トリノに舞う」で紹介されているのを見て、生で食べることを知った。
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2月14日
クーネオからコートダジュールのベンチミーリア間には、いわゆるタンド線が走っている。Tendeはフランス読みで、タンド。イタリア読みではテンダなのだが、ぼくは勝手に英語読みでずっとテンデといっていた。しかしWikipediaなんかでは、タンド鉄道、タンド峠などとフランス語読みが通用しているようなので、以後タンドとすることにした。
クリック⇒
タンド線

この路線にはタンド峠南側(フランス側)に3カ所、北側(イタリア側)に1個のループ線があり、馬蹄形ループは何カ所もある珍しい鉄道であることは、なんどか乗ったことはあっても知らなかった。
そう認識して乗ってみたかったのと、秀子はモナコに行ったことがないので、モナコへの遠足を考えた訳。
この地図で示されている赤線は、クーネオ(CUNEO)からベンチミーリア(Ventimiglia)までと、途中から分岐してニース(NICE)までの路線です。(点線はトンネル)
クーネオからベンチミーリアまでは線路とほぼ並行して道路が走っています。
ベンチミーリアからは、コートダジュールの海岸線沿いに鉄道と高速道路があります。
今回はリモーネ・ピエモンテ駅からタンド線に乗り、ベンチミーリア駅で乗り換えて、コートダジュールに沿ってメントンを過ぎてモナコに至る訳です。
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パベルと最後の夕食をした時のことです。
彼が、あのパチプロはどうしていると聞いたのがきっかけで、話はあのぼくの還暦パーティの時のベルギー国境のリンバーグへのバイクツーリングの思い出話になりました。
あの時は、総勢15人程が森の中のコテージを借り切って、毎夜マリファナパーティーをしていました。パベルはアムステルダムから持って来たブツを使ってセッセとタバコを巻いてくれていました。
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「ジャニスは、どうしてるのかなぁ。しばらく電話もメールもないし」という家内の言葉で、ジャニスのことを思い出しました。彼女のことをヤマケイの雑誌に書いたことも思い出し、本棚を探してそれが山渓別冊『ヤマケイ関西』であったことが分かりました。
<京都生まれの岳人、高田直樹氏。'70年代『山と渓谷』で連載された「なんで山登るねん」でおなじみの軽快な口調で、北山の思い出を語る。>というリード文で始まるエッセイ『北山のぼくの好場(すいば)』を紹介します。
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<クンジェラーブ峠越えでフンザへ>
現在、中国からパキスタン・フンザに向かう旅の途中です。

関空から上海経由で西安へ。西安・ウルムチと泊まりを重ねて、現在天山山脈の上をカシュガルへ向け飛行中です。
カシュガルを出た後は、タシュクルガンで一泊して、クンジェラーブ峠を越えてフンザに入ります。
クンジェラーブ峠越えは、今回で3度目です。
この前の時は、中国共産党創立80周年記念行事で、新彊旅行協会の王さんからタクラマカン砂漠縦断の旅に招待された時でした。
この年には、ちょうど関田・角倉・岩佐君らとパキスタンに行く約束をしていました。そこで家内を含めた5人で参加したいのだがと返事をしたら、日本・中国間の飛行機代はあなた一人しか負担できないけれど、それでよろしければ、みんな招待しましょうという返事が来ました。
こうして、ぼく達5人は、パトカ-5台に先導されて、外国人に初公開されるタクラマカン砂漠縦断とタクラマカン半周の約10日間の旅を楽しむことが出来ました。
あれは2002年、それから6年しか経っていないのに、中国の変化は驚くべきものがあります。
わずか6年での中国の変化は目を見張るばかりで、西安もウルムチもカシュガルもまるで別の町のようです。泊まっているホテルは、みんな去年から今年に建ったものばかりです。
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昨年(2008年)1月から始まった週刊日本百名山も今年の正月で完結したようです。
本棚で、前回の企画だと思うのですが、同じ週刊日本百名山を見つけました。黒部五郎岳の原稿を書いたのを思い出しました。
2001年に朝日新聞社の依頼で[週刊]日本百名山No.15 黒部五郎岳 笠ヶ岳に書いたエッセイです。
同じ册の笠ヶ岳の項には、平林克敏さんが書いておられます。氏には、今回の京都府立大学山岳部の鳴沢岳遭難事故の調査委員会の委員長をお願いしております。それにしても、あの頃の黒部源流はほんとに別世界の異次元空間でした。懐かしくなって、アップすることにしました。
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文部省登山研修所が、研修生の教育のために作った16mm映画です。1973年の夏に基礎編、1974年の夏に応用編の撮影がいずれも劔岳のロケで制作されました。
登山研修所は富山県立山の麓、千寿ヶ原に1967年に設立された文部省の施設です。大学山岳部リーダー、社会人山岳団体の指導者や高校山岳部の顧問を対象に登山の研修を行うためのものです。
この施設の専門員となった南極越冬隊帰りの佐伯富夫氏の要請で、ぼくは第一回の大学山岳部リーダー研修から始まって永くインストラクターを務めました。
もともとぼくは、この映画の基礎編だけに出演するはずだったのですが、なぜか応用編にも出て下さいと言われ、エベレスト南壁から帰ってきたばかりの重廣恒夫氏と組んでチンネを攀ることになりました。
後で分かったことなのですが、基礎編のラッシュを見た山の大御所、槙有恒氏が「この人の登りは素晴らしい。応用編にもこの人を使って下さい」という鶴の一声で、ぼくの再出演が決まったのだそうです。その結果、外された人はきっと怒ったのだと思います(それが誰だったかは、その後なんとなく分かったのですが)。
その後1979年に、ぼくは重廣君にラトック1峰攻略を持ちかけ、一緒にこの難峰に向かうことになりました。
これらについては、下の記事を参照して下さい。
(海外登山-府大山岳会50周年記念誌
「回想のラトック1峰」及び
「ラトック1峰遠征を終わって」(日本山岳会会報1980))
16mm映画『岩登り技術』(基礎編)
基礎編1/3
基礎編2/3
基礎編3/3
16mm映画『岩登り技術』(応用編)
応用編1/3
応用編2/3
応用編3/3